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揖夜神社 広報部会

揖夜神社 広報部会

揖夜神社の紹介

御鎮座の由来

 揖夜神社御鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻(かみよのまき)には「伊賦夜坂(いふやざか)」についての記述があり、『日本書紀』齋明天皇五年(西暦659年)の条に「言屋社(いふやのやしろ)」、『出雲国風土記』に「伊布夜社(いふやのやしろ)」、『延喜式』神明帳(じんみょうちょう)に「揖夜神社(いふやじんじゃ)」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。  神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜大社」「揖屋大社」と称されていた様です。

朝廷・国守・武家の崇敬

 古より朝廷の崇敬が篤く、『三代實録(さんだいじつろく)』には、清和天皇の貞観九年(西暦867年)に「従五位上(じゅごいのじょう)」、同十三年(西暦871年)に「正五位下(しょうごいのげ)」の御神階が授けられた記録があります。また出雲国造奉仕の神社として早くから別火職が設けられていました。  武将の崇敬も篤く、天文十二年(西暦1543年)大内義隆が太刀・神馬を寄進、同二十四年(西暦1555年)尼子晴久が出東郡氷室の内の百貫の土地を寄進、天正十一年(西暦1583年)毛利元秋が社殿を造立、慶長六年(西暦1601年)堀尾吉晴が揖屋村の内の四十石の土地を寄進、元和元年(西暦1615年)には社殿を再建し、寛永十一年(西暦1634年)京極忠高は旧領(四十石)を安堵し、次いで同四十四年(西暦1637年)社殿の修造を行っています。さらに松平氏も、寛永十五年(西暦1638年)初代の直政が旧例のとおり四十石を寄進、三代綱近の時に明暦三年(西暦1657年)の検地による出石十二石一斗三升六合を加えた五十二一斗三升六合が神領とされました。社殿の營繕は松江藩作事方の手で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。

近代における社格

 明治五年二月郷社に列し、同四十年四月二十八日勅令による神饌幣帛供進神社の指定を受け、大正十五年十一月二十二日縣社に昇格しました。

出雲国造との関係

 當社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、江戸時代から「六社参り」の参拝者が絶えず、御遷宮には今でも国造の御奉仕があります。  江戸時代の書物『出雲神社巡拝記』には、揖屋大明神の項に「意宇六社とて有其一ツ也、六社とは当社及、熊野大社、大庭かもしの社、山代いざなぎの社、佐草ノ八重垣、大草の六所神社 是也、巡拝の人 格別の社なれば 一々心をとめて拝礼すべし」と書かれています。

御祭神

伊弉冉命(いざなみのみこと) 大巳貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと)

御祭日

 大祭   例 祭    十月 十九日
      祈年祭    四月 十九日
      新嘗祭   十一月二十五日
 古伝祭  御田打祭   一月  三日
      御田植祭   五月二十八日
      穂掛祭    八月二十八日
      一ツ石神幸祭   同日

御本殿  大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)

 

御神紋  二重亀甲に剣花菱

境内社

韓国伊太氐神社(からくにいたてじんじゃ)

三穂津姫神社(みほつひめじんじゃ)

特殊神事

●穂掛祭  祭の前日に、中海の袖師ヶ浦で禊を修した後、社務所において新米をもって神酒や焼米などの神饌を調理し、当日穂掛榊(稲穂を榊に掛け瓢豇を付ける)を作って七十五か所に捧げ、その神饌をお供えする。かつては祭日不定で、当年熟稲の早晩によって臨時日を定めていたが、現今は八月二十八日をもって祭日としている。
●一ツ石神幸祭  袖師ヶ浦の沖にある一ツ石まで神輿を舟に載せてお運びし、禊を修して祭事を斎行する。かつては七月二十八日に行っていたが、現今は穂掛祭当日の午後、当社の前灘より神船を出し、多数の船が先曳をなして祭事を執り行っている。本殿内の壁にその様子が描かれている。

遺 跡

黄泉比良坂  記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国(根の国)との境である黄泉比良坂の比定地が当社の東方の東出雲町揖屋平賀にあり、石碑が建てられている。

指定文化財

「揖夜神社文書」 六十七通(鎌倉~明治時代)
以上、文章は「特別神社 揖夜神社御由緒書」より引用

境内の写真

アクセス

所在地:〒699-0101 島根県松江市東出雲町揖屋2229

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